2007年6月30日土曜日

京都嵐山吉兆 インドの王族と食文化交流


2007年6月18日、現地時間の午後8時から、京都、嵐山吉兆、総料理長 徳岡邦夫氏が、毎日放送のプロジェクトで、インド北部の元カプルターラ藩王プリンス・テッィカ氏のデリーの邸宅に赴き、日本料理を通じて日印食文化交流を行なった。
遡ること2年前、2005年5月、プリンス・ティッカ氏は、訪日の際、日本で最もおいしい日本料理の店を探していたところ、知人から、京都嵐山吉兆を紹介され、訪問。
ティッカ氏は、総料理人、徳岡邦夫氏の作る料理に感銘を受け、「いつの日か、インドの我が邸宅で、マハラジャの友人たちに、徳岡氏の料理を振舞いたい」との希望が、今回叶ったもの。
徳岡氏も、ティッカ氏の招待を意気に感じ、若手料理人から3名を選抜、さらには、徳岡氏の長男、一喜さん(19)を含めた、海外遠征チームを編成し、現地入りした。

(左)11人の招待客を想定し、王族晩餐会用に日本から発送した食材、調味料、調理備品は、段ボール箱19個分。現地の水道事情も考慮して、料理用の水も持参。(右)当然のことながら、食材の鮮度にも気を配る。


(左)デザート用のフルーツは、現地で購入。(右)選抜された若手料理人たちが、持参した食材などにより、料理の準備を黙々と続ける。
晩餐会でサーブされたのは、8品。招待客の中で、もっとも、評判が高かったのは、伊勢えびのリゾット・吉兆風ガラムマサラ。味付けは、嵐山での調理方法を基本に、現地で調達した、カレースパイスをアレンジしながら、インド人の舌に合うように微調整した。


ゲストの前で調理をする徳岡氏


(左)歓談中のティッカ氏 (右)デザートの後に、ご挨拶。
ティッカ氏は、「私の曽祖父は、明治30年代に天皇陛下から、晩餐の招待をいただき参加しました。我々王族と、日本の皆さんとの交流はすでに四半世紀。今回は、インドの人々に、徳岡氏のクリエイティビティや、日本の料理の繊細さ、素晴らしさを味わってもらえたことに大きな意義を感じます。成長著しいインドと、日本の文化交流がもっと活発になるように頑張りたい」とコメントした。
徳岡氏も「インド人の味覚や、食べるスピードまで、総合的に考えながら調理した結果、 たくさんの満足を得られました。より多くのインドの人に日本料理を知ってもらいたい」 と語った。
なおこの模様は「真実の料理人」として、2007年7月14日(土)午後2時00分から2時54分まで、TBS系で全国放送された。

島田昭彦がインドを体感!!



ゼロの概念を生み出した国、インド。市場で働く男たちも、王族も、個々に生きる哲学を持ち、なおかつ計算と論理的思考が得意であることを今回の、訪印で実感。

ルイ・ヴィトン・ジャパンの牧里さん(写真 中央)は、今回のプロジェクトのキーパーソン。ルイ・ヴィトン・インドとの架け橋となり、クリップしてくれた。本当に感謝です。
オールドデリーの中ほどにある、庶民のチキンカレーの店。グツグツ大型の金属製の鍋で煮るのだ。今回、様々な店で、カレーを食べたが、それぞれに香辛料の配合の仕方や使い方が違っていて、実に興味深い。これもインドにハマる要因のひとつかも。



(左)ルイ・ヴィトン・インドの顧問を務める、マハラジャ・プリンス・ティッカ氏(左写真 右側)。曽祖父は、明治天皇に招かれ来日したこともあるそう。今のように、飛行機のない時代、船と車で移動し、その当時から、ルイ・ヴィトンの荷物入れを愛用していた。その縁もあって、現在は顧問として、インドマーケットのラグジュアリー層の拡大を受け、尽力する日々。(右)曽祖父の写真と当時使ったトランク



「旅は人間を成長させる」と代々教わってきたと、ティッカ氏。全く同感。様々な文化に触れることで、新たな感性が磨かれる。代々使い込まれた、ルイ・ヴィトンのトランク。MAHARAJAは藩王の意味。カプルターラ藩王と刻印されている。



インド北部のマハラジャ、元カプルターラ藩王、プリンス・テッィカ氏の宮殿。

ニューデリーとオールドデリーでは、まったく違う表情を持つ。貧困にあえぐ子供たち。まともな教育を受けてない彼らが、インドの成長とともに、教育制度が整備されたなら。全体の底上げがなされ、ますます成長は加速するだろう。

夜の晩餐を前に、インペリアルホテルのデラックススイートでランチ。北部インドを統括する面々と懇親。

写真撮影が一部の人たちのものだった頃に、すでにMAHARAJAたちは、旅をテーマにした写真集を作っていた。時空を超えて旅は続く。

インペリアルホテルのシェフたちから、スパイスの使い方についてレクチャーを受けた。徳岡氏は、夜の晩餐の料理に使うため、8種類近くのスパイスを拝借。

晩餐会のメニューと日本から持参した食材リスト



手土産として、持参した、和傘は、マハラジャの邸宅でも絶妙にマッチした。
インドの映画産業のメッカ、ボンベイ。こちらでは、ハリウッドならぬ、ボリウッドスターと呼ばれる。

(左)今秋創刊される、VOGUE INDIAの編集長とともに。(右)みんなで集合写真。

京都嵐山吉兆 総料理長 徳岡邦夫

2007年6月18日、現地時間の午後8時から、京都、嵐山吉兆、総料理長 徳岡邦夫氏が、毎日放送のプロジェクトで、インド北部の元カプルターラ藩王 プリンス・テッィカ氏のデリーの邸宅に赴き、日本料理を通じて日印食文化交流を行なった。→詳細はこちら

2007年6月13日水曜日

『新たな魅力 発見・発信したい』朝日新聞 京都版 2007年06月13日

島田 昭彦さん(43)
2007年06月13日

京都本人気に代表される昨今の「京都ブーム」。生粋の京都人は意外にその魅力に気づいていないと言われることもある。島田昭彦さん(43)もその一人だった。伝統に堅苦しさを感じ、東京、海外へ。ところが、それが京都の奥深さを知るきっかけになった。イベントをプロデュースしたりプロジェクトを立ち上げたりする会社「クリップ」で、文化や伝統を世界とつなぐ橋渡しに取り組んでいる。新たな魅力 発見・発信したい

――10代、20代は京都から飛び出したかったそうですね。
実家は代々、着物に家紋を描き込む職人。机に一日中座って作業を続ける地道な仕事です。そのうえ「一人前になるには15年かかる」。僕にはその覚悟はなく、反発もあって東京の大学に進みました。卒業後は出版業界へ。スポーツ誌「Number」では約10年間、ワールドカップからオリンピック、F1と国内外であらゆるスポーツの取材にかかわりました。

――それなのに、再び京都に目を向けたのはなぜですか。
中田英寿選手の取材でイタリアの田舎町ペルージャを訪れた時です。スタジアムで働くおばちゃんに出身を尋ねられ「京都」と言うと、「世界遺産の街だね」と即答でした。気づいてなかったけれど、京都はすごい街なんじゃないかと考え直すようになって。もう一度、足元から京都と向かい合おうと思うようになりました。

――それを形にしたのが

クリップは人と人、文化と文化をつなぐという意味です。京都は素晴らしい伝統産業の技術や文化がある。でも「お高くとまっている」と敬遠される部分もあって、もったいないなと感じていました。異業種や意外な人と文化の組み合わせで新しい側面を見せることができないか。その橋渡しをするのが僕の役目だと思いました。

――具体的にはどんなプロジェクトが進んでいますか。

最近では、京友禅のアロハシャツの企画や、イタリアの家具メーカーと京都の布団メーカーによる昼寝用マットの商品化、和傘の老舗(しにせ)と照明デザイナーの仲介などがあります。原点にあるのは「どうしたら、敷居が高いものを消費者の身近なところに引っ張りだせるか」。難しいことを砕いて伝える取材力が今、役だっていると思います。


しまだ・あきひこ 64年生まれ、立教大卒。スポーツ誌「Number」などを経て、05年にクリップ設立。ホームページ(http://www.clip-fromkyoto.com/)で活動を紹介している。