2007年9月3日月曜日

『老舗を興す(3) 日吉屋5代目 西堀耕太郎さん 傘がともす和のこころ』日本経済新聞(夕刊) 2007年09月04日

老舗を興す(3) 日吉屋5代目 西堀耕太郎さん 傘がともす和のこころ

和紙を通して電球の明かりがほのかに透ける。「古都里(ことり)」は和傘の仕組みを転用し、かさ部分を折り畳んだり広げたりできる照明器具だ。京都市の和傘製造元、日吉屋が今年二月に発売。手作りでもあり、今も生産が追いつかない。

「おしゃれと感じて使い、後で傘と分かればいい。」五代目、西堀耕太郎さん(32)の前職は公務員。妻の実家が日吉屋だった。

京都で唯一残った和傘屋も四代目で店じまいのはずだった。市場は縮小、たまの注文も野点用の大傘の修理程度。一本五百円のビニール傘さえ売っていた。跡を継ぐことに周囲は猛反対した。

それでもめげず、週末に五時間かけて自宅のある和歌山県新宮市と京都を往復し、見よう見まねで技術を学んだ。「竹の骨組みの幾何学的な構造や透過光が本当にきれいだった。」原点は、妻の実家で初めて和傘を見たときの感動だ。

ネット通販で売り上げを伸ばすなど滑り出しは順調に見えたが、いまひとつ物足りない。転機は、伝統工芸と日用品の融合に取り組む島田昭彦さん(43)、照明デザイナーの長根寛さん(40)との出会い。三人で現代風のデザインと、開閉自在の伝統のかさをねじで固定する方法を開発、一年後に古都里が完成した。

今年五月に照明大手、コイズミ照明(大阪市)との合作品を発売、六百台を受注した。来年一月にはフランスのインテリア展示会に出品する。

九十歳など高齢化していた職人も一気に若返った。今では西堀さんが最年長。縁もゆかりもなかった若者の決意は図らずも世代交代まで実現させた。

「伝統的な蛇の目傘も、江戸中期は流行の最先端だった。変化や革新の連続が伝統をつくる」。一九七五年に来日した英エリザベス女王が楽しんだ桂離宮の野点にも、日吉屋の和傘は使われた。次代の伝統づくりが始まっている。


和傘  竹と和紙で作る傘。一本の竹を割り、順番に糸でつなぎ骨組みを作る。和紙を張り乾燥したら内側に折り畳み、もとの竹のような円筒形にする。江戸時代に普及、明治期には製造元が京都だけで約二百軒あった。今も残るのは京都は日吉屋のみ、全国でも十軒ほど。


2007年8月31日金曜日

『京都にかける想い~地域に根ざした情報発信を』雑誌:立教 インタビュー 2007夏号

文化事業をプロデュース。
京都にかける想い~地域に根ざした情報発信を

㈱クリップ代表取締役社長
島田昭彦氏に聞く

島田昭彦(しまだ あきひこ)
1987年立教大学社会学部産業関係学科卒卒業後、㈱日経ホーム出版社に就職、『日経トレンディ』の編集を手がけた後、1991年から10年間、スポーツ情報誌『Number』の編集に携わり、イチローや中田英寿といったトップアスリートたちと親交を深める。その後はラジオのスポーツコメンテーターとして活躍しながら、文化事業プロデューサーとして、出身地である京都の文化を世界に発信。2005年6月から人と人、モノとモノ、文化と文化をクリッピングして情報発信する㈱クリップ代表取締役社長。

白石典義(しらいし のりよし)
経営学部長 立教大学社会学部産業関係学科卒、カリフォルニア大学ロスアンゼルス(UCLA)経営大学院修了
専門分野は計量経済学、時系列分析とその応用。特に、ファイナンス分野を対象として、計量経済学、時系列分析の手法を用いた実証分析を行っている。


立教は原点回帰の場
━クリエーティブな発想を育む土壌


白石 島田さんは大学の多い京都のご出身ですが、あえて東京の大学、なかでも立教大学の、社会学部産業関係学科を選んだ理由をお聞かせください。

島田 実家は中京区という京都市内の中心部にあり、父は着物などに家紋を手で描く紋章職人でした。いまどき手書きの家紋付きの着物を着るのは皇室の方か歌舞伎の世界の方などとごく限られていますし、堅苦しい京都の職人の世界にどうしてもなじめなかったんです。代々続く老舗でしたから父は私に跡取りの期待をしつつも、「好きなことをやりなさい」と言ってくれて、高校を卒業したあと、実は一旦、同志社大学に進学したんです。

入学して最初の夏休み、北海道へ旅行したときに立教大学の学生のグループと出会いました。立教大学という名前は聞いたことがあったものの、どういう大学なのかは、まったく知りませんでした。彼らの感性の良さが非常に印象的で、がぜん興味をかき立てられましたね。ちょうど親元を離れて東京の大学で学びたいという意識が強かったこともあって、立教大学を再受験しようと決めました。

学部は、将来は起業して経営者になろうと思っていましたし、広くマーケティングなども勉強できると考えて、柔軟性のありそうな社会学部産業関係学科を選びました。ゼミでは松井賚夫先生にお世話になりまして、ピーター・ドラッガーの経営学理論などを学びました。

白石 どんな学生生活を送られていましたか。

島田 十のうち、勉強に五、アルバイトに三、旅行に二ぐらいの割合でした。ちょうど、京都を飛び出して東京に出てきて、さらに次は海外にすごく意識を向けていた時期だったんです。学生のうちに四大陸か五大陸、自分の足で旅をしてみるつもりでした。

白石 海外に対する学生の意識は、今でこそ卒業旅行等で気軽に行けるという感じですが、かつてはアドベンチャー的な要素も強かったように思います。それにしても、「五大陸制覇」というのは突出した感がありますが、何か目的があったのですか。

島田 当時から建築やデザインに興味がありまして、他大学の建築学科の友人に、スペインのバルセロナにはサグラダ・ファミリア教会という、アントニオ・ガウディが造ったすごい建物があるから、見に行ってこいというアドバイスを受けたんです。気になって調べてみたら、本当に素晴らしい建築家であることが分かって、それを見るためにスペインに行ったり、サッカーのスタジアム建築にも関心があったので、イタリアではスタジアムを見たり。車のデザイン美に魅了されて、ドイツを訪れたこともあります。単にバックパッカーとして放浪旅行をするのではなくて、クリエーティブな興味を満たしてくれる場所に行き、見て、聞いて、感じることを主な目的としていました。ヨーロッパのほか、中国とアメリカ大陸も横断しました。もちろん一度にまわったわけではなく、夏休みや春休みなど長期の休みを利用しました。費用は、家庭教師のアルバイトをしてまかなっていましたね。

白石 名所、史跡などだけではなく、建築物にしろ、製品にしろ、プロデュースされたものに興味がおありだったようですね。それはご実家の家業の影響がありますか。

島田 大いにありますね。父が携わっていた家紋というデザインの仕事は、代々、人間が手で細密に描き、日本の文化として継承されてきたものです。何かをつくるということが時系列を経て今日まで続いている。ものづくりもそうですが、私がいま取り組んでいる、伝統を生かしたまちづくり、地域の活性化、まちの風景全体をどうつくるかという仕事にも密接にかかわっていると思います。

白石 学生時代の友人とは、卒業後もお付き合いがあると思うのですが、立教の学生について感じていることをお話しいただけますか。

島田 学生時代には、例えば早稲田や慶應や東大、明治など、他大学の学生たちの集まりにも参加していました。そのなかで感じたのは、立教生はユニークな発想の人が多いということです。立教は、自由な雰囲気の家庭環境で育っている人が比較的多いのではないでしょうか。そういう人のほうが、新しいものをクリエートする力は強いのかなと思います。

仲間うちで、次の時代はこうなるのではないか、こういうものがあるといいのではないかという話をよくしていました。当時は雑談にすぎなかったのですが、それがいまはビジネスとなって、例えばレストランを開いている人、外資系ホテルのマネジャーになって、サービスの開発、提供面で反映させている人もいます。

白石 立教の学生の気質は仲良しクラブ的で、押しが弱いと言われることがありますが。

島田 よく言われますね。覇気がないとか、お坊ちゃんだとか。しかし、仲は良いけれど、一つ芯を持った人は、学生全体のなかに何割かはいると思います。学生時代、プロデュース研究会というところに所属していたのですが、世の中に何か面白いことを仕掛けてやろうと考える学生の集まりで、ここの出身者には、現在、すでに㈱リクルートや、音楽を中心にビジネスを展開しているエイベックス・グループの役員になっていたり、マネジメント的な仕事に携わる連中が多くいます。何かを仕掛ける意識はクリエーティブな発想から生まれてきているのではないかという気がしますね。

私は、立教大学が自分の出発点だと思っています。大学へはいまでも一年に一回か二回、何かの用事で来ることがあるのですが、学生時代に思い描いていたことと、いま取り組んでいることが、はたして一致しているかどうか。いま自分が起こしているアクションなり、内容が、当時イメージしていたことに近づけているかどうか。立教大学に戻るたびに起業心の原点回帰ができるんです。


トップアスリートから学ぶもの

白石 卒業後はマスコミ業界に就職されたわけですが、最初からスポーツ・ジャーナリストを志していらっしゃったのですか。

島田 マスコミに進んだのは二つ理由がありました。一つは、これまで世界をまわり、見て、聞いて、感じたものを伝えるような仕事がしたかった。そのためには、やはりマスコミに入るのが一番だろうと考えました。

もう一つは、人脈づくりです。将来、自分で起業するときにまず必要なものは、人脈だろうと思ったんですね。人脈とひと言で言っても、銀行に入るのも一つの方法であるし、メーカーに入れば製造、流通の人脈というのもあります。スポーツの現場では、「卓球の福原愛ちゃんから格闘家のボブ・サップまで」などと言って笑いをとったりもするのですけれども、いろいろなジャンルや階層の人に、広くあまねく、取材という名目で会えます。そういった意味で、取材をする仕事のできる出版社かテレビ局かなというのが、心の底にはありました。

まず日経ホーム出版社という日本経済新聞社系の出版社に入り、創刊されたばかりの『日経トレンディ』という情報誌に携わりました。日経の出版社に入る人は、どちらかというと経済系に興味がある人が多いんですが、私はほかの人が取材しないテーマを熱心に取材していましたね。例えば、当時はモータースポーツでF1が社会現象になっていました。そこで、F1、モータースポーツと企業活動とか、企業文化といった取材を進めていたんです。その記事に目を掛けていただいて、一九九一年には文藝春秋社のスポーツ情報誌『Number』編集部に移り、十年間編集に携わりました。

白石 『Number』でのお仕事というのは、ご自身で企画を立てて取材をし、記事にするということでしょうか。

島田 そうですね。スポーツを総合的に扱う雑誌なので、ジャンルにこだわらずオールラウンドに、それも国内外に立てた幅広いアンテナの中から自分で企画を考え、紙面に落としていくのですが、広い層の人たちに分かりやすく伝えることにポイントを置いていました。

白石 印象に残っている取材はありますか。

島田 九〇年代というのは、プロスポーツ人気が右肩上がりで一気に上昇してきたときでした。当時は、日本人の海外挑戦というのが一つのテーマになっていたんですね。例えば中嶋悟選手が日本人初のF1ドライバーとして活躍したり、オリンピックではスキー複合の荻原健司、テニスでは伊達公子であるとか。そのうち、野茂英雄がメジャーリーグに行き、サッカーがプロ化されて、団体戦としてワールドカップに挑戦という構図があったのが九〇年代の約十年です。ちょうどそこにどっぷりはまっていたのが私の十年ということなります。青春を返せとよくジョークで言うのですけれども(笑)、本当に忙しかった。しかし、年齢的にも近い選手たちのメッセージを読者に向けて伝えるという作業は、非常に楽しかったですね。

そういったトップアスリートたちへの取材で感じたのは、一流と二流は大きく違うということです。オリンピックにたとえると、金メダルを取れる選手と、銀メダルでは雲泥の差があります。柔道の谷亮子選手、野村忠宏選手にしても、三回連続して金メダルをとるというのはもう奇跡に近いですよね。彼ら選手たちは試合後に、「トレーニングも考えられることは全部してきました。場内の観客も運も味方につけました。でも、勝つにはさらにもう一つの要素が必要なんです」とよく言います。それは、そのときの巡り合わせだったり、または体調もありますし、よく根性などともいわれますけれども、根性を超えたメンタルな部分や、もちろん肉体面のトレーニングも大きい。この、トップアスリートならではの感覚というものを読者の人たちに伝えたいという思いを、常に強く持っていました。『Number』がほかのスポーツ雑誌と大きく違うのは、勝った、負けただけではなくて、勝敗に至るプロセスや、その背後にある人間の本質の部分、または普遍性の部分をしっかり伝えるということにあります。読んだ人が、自分はイチローや中田英寿とは違うけれども、彼らの考えていることを何かに応用できないか、生かせないかと感じられるエッセンスなり内容を行間のなかに盛り込んでいくような編集を心がけていましたね。

白石 トップアスリートたちと間近で接してこられた島田さんならではのお話ですね。本学では二〇〇八年四月、コミュニティ福祉学部に「スポーツウエルネス学科」が創設されます。スポーツを通じてウェルネスの向上と福祉社会の実現を支える専門的知見と福祉マインドをもった人間を育てるのが狙いです。また、同年度には大学全体で「アスリート選抜入試」を導入する予定です。これは、従来の「自由選抜入試」と理念は同一とし、よりスポーツ実技の位置づけにウエイトを置いた制度となっています。この背景にあるのは、やはり学業とスポーツを通じた全人的な教育を実践したいということ。文武を両立させつつ、スポーツを通してこそ養える「己に打ち勝つ」といったメンタル面が更に学業面に向けられ、総じて学力もぐんと伸び、それが他の学生にも好影響を与えることを、私などは期待しているんです。英国のオックスフォードやケンブリッジも、研究・学業面と共にラクビーやレガッタといったスポーツ面も見事に両立させている。これに近いものを目指したいのですが、島田さんはどうお感じになりますか。

島田 私も同意見ですね。トップアスリートに共通しているのは集中力です。スポーツというのは、身体全体を使って、かつ頭も使わなくてはいけない。そんななかで最高の集中力を出すためにはどうすればいいかを常に考えるのが、トップアスリートです。社会に出たあと、その集中力などは必ず生きてくるし、スポーツには、学業だけでは測れない感性を醸成し、生みつくって育てていく部分があります。また、もう一つの共通点として挙げられるのが、競技やプレーを「文化」として捉え、自分の言葉で、ロジカルに語れるということ。そういった感性はビジネスの現場でも求められることが多いのです。立教から世界レベルのアスリートが出なくても、アスリート選抜入試やスポーツウエルネス学科が、そういう考え方や発想、着眼点を身につける場になれば素晴らしいですね。

京都発、和の文化をプロデュース

白石 ジャーナリズムの世界から、今度は日本文化をプロデュースする事業へと活動の場を移されていくわけですが、きっかけは何だったのでしょうか。

島田 取材で世界中をまわりましたが、自分がほかのスポーツ・ジャーナリストと大きく違っていたと思うのは、競技場やグラウンドの中だけを見るのではなくて、その周辺にある食文化や建築文化、生活文化も含めて、広く文化を吸収したいという好奇心を持っていたことです。

異国の文化に触れるうちに驚かされたのは、外国の方の日本、特に京都への興味はとても強いものがあるということでした。例えば、イタリアの小さな町であるペルージャのおばちゃんまでもが、私が京都から来たと言うと、「ああ知っている。古いまちでしょう」と、京都の名前を知っているんです。私はそこではっと気づくものがあって、目からうろこが落ちました。自分は京都に生まれ育っているのに、京都のことはほとんど知らない。一方、よもや京都のことなどは知らないだろうと思っていた人が知っていた。このことがきっかけで、自分自身をもう一度振り返ってみて、これまでスポーツという文化を伝えてきたけれども、自分の生まれた地域に根ざした何かを発信することで、地域に貢献することができないかと考え始めたんです。

その考えと符号して、地元京都の高校時代の友人たちが、漬物屋だったり、旅館を営んでいたり、京友禅染めをしていたりと、老舗の何代目かだったりして、彼らは由緒ある歴史と伝統は引き継いでいるのです。しかし、京都に生まれ育っていると新しい企画なり発信のアイディアがわいてこないと彼らは頭を悩ませていました。例えば老舗の京友禅では、もういまにも自分の土地を売って、マンションか駐車場に変えなければいけないという切実な問題に直面していました。伝統的な技術は生かしながらも、減少が続く着物需要をなんとか回復させたいという話になって、現場をひととおり見学させてもらいました。友禅の匠の技はある。京友禅という非常に絵画的な、現代で言う専属イラストレーターが残した図案集もある。ならば、着物にこだわるのではなく、アロハシャツにつくりかえてはどうかという提案をしたのですが、これが見事ヒットにつながりました。

そうして、地元京都の老舗の再生や、地域の伝統産業の活性化に関する相談を受けることが増えてきたなかで、身体一つでは、スポーツ・ジャーナリストとのかけもちはスケジュール的に厳しくなってきてしまいました。三十五歳を超えて、今度は自分のライフワークということを考えたときに、いままでは雑誌という二次元のところでスポーツの文化を伝えていたけれども、これからは京都の文化をもっと立体的に発信したい。結果、それが京都の廃れゆく伝統産業がかたちを変えて再生するための力になれればいいなと思うようになったんです。

最初は相談ベースで始めたのですが、相談に来たクライアントとパートナー契約を結び、アドバイザー、コンサルタントとしてお手伝いさせてもらうようになりました。一つ成功すると、いろいろな人が注目してくれるようになります。なぜあそこの友禅染めがいきなりアロハシャツをつくってV字回復しているのか、京都の商工会議所や京都市が注目し始めるようになりました。講演を行ったり、また口コミで活動しているあいだに多種多様な、それこそ衣食住全般の京都の文化的な仕事をしているところと組むようになりました。それが今日、文化事業としてプロデュースしていることにつながりました。

設立した会社名はクリップというのですけれども、人と人、ものともの、文化と文化をクリップして発信して、それをビジネスにすることを理念としています。二十一世紀的なソフトビジネスというか、ビジネスをデザインする、デザインをビジネスにするという「デザイン」にこだわった仕事だと自分では解釈しています。

白石 京都に生まれて、東京へ行き、その間、世界を知り、もう一度京都に戻ってきた。しかし京都にとどまっているわけではないですよね。対象となる場所や仕事のクライアントはまた世界中にということで、活動が循環されていますね。

島田 ルーツは京都ですけれども、いろいろなものが集約されてくる京都を発信源として、仕事の舞台はインターナショナルということはいつも意識しています。京都にいると、いわゆる世界のブランドメーカーから、京都の匠の技と組んで仕事をしたいという依頼が来るんです。具体例ですと、カッシーナという高級イタリア家具メーカーが、京都の匠の技でクッションを部屋のインテリアとしてつくってみたいとか。イタリアの感性がアレンジされて京都に落とし込まれ、結果的に自然の流れで、京都から再発信をしているという感じですね。

白石 異文化の理解だとか、融合だとか、共生が自然に起こっている感じがしますね。外に出て感じることにより、結果としてその融合状況が自分のなかに起こっているイメージなのではないかと思います。

本学では、二〇〇八年四月に異文化コミュニケーション学部が新設されます。多文化共生社会をリードする人材育成を目的とし、「複数の外国語能力の養成」を特色の一つとしているのですが、ご自身のご経験から、世界を舞台に活躍したいと考えたときに、やはり複数言語の習得は必要だと思われますか。

島田 あったほうがいいですね。スポーツの取材にかかわるようになって、イタリア語学校に通いはじめました。F1のレースでフェラーリのチームを取材したり、イタリアでサッカーを取材するうえで、やはりイタリア語が話せるかどうかがすごく大切な要素だったんです。それだけで取材が成立するか、失敗するかが決まってきてしまう。もう少し身近な例では、チームを率いて取材をしたとき、イタリアのレストランでメニューを全く理解できないまま、空腹に耐えかねて適当にオーダーしたところ、全く想像していたのとは違う料理が出てきた(笑)。責任者としてこれではいけない、最低限の務めも果たせていないと痛感させられました。英語を話せるのはもちろん、プラスもう一言語話せると、他人と差がつけられ、行動範囲も広がると思います。

白石 異なる文化と出会ったときに、自分の文化とは違うというスタンスでいる限り、融合や共生は生まれませんよね。だからといって、違うからと物珍しさだけで受け入れようというのもなかなか難しい。違うのはなぜだろう、なるほどなというプロセスがあるからこそ、自分に興味のある部分は、もう少し学んでみようかという意欲が出てくるのでしょうね。
異文化と上手に付き合うコツのようなものはありますか。

島田 三つ挙げるなら、まず好奇心と、フットワークです。現地に行ったら、フットワークでもって、何を感じるか。例えば、「実食に勝るデータなし」ではないですが、インドに行って本場のインドカレーを食べる。イタリアに行ってパスタを食べ、フランスでワインを飲む。そのことによって得られる、自分のなかの知の集積があると思います。そいういう好奇心とフットワーク、
加えて、人脈です。国内でも外国の人も同じですが、接点を持った人を人脈として広くつなげていけるかどうかというのは、すごく大きいと思います。縁あって知り合っているわけですから、そういった縁を大切にすることですね。

白石 好奇心、フットワーク、人脈。同志社大学時代、北海道に行って立教大生と会ったときから、まさに実践されているわけですね。


学生よ、知的冒険者たれ

白石 今後の夢というか、取り組みたい事業はありますか。

島田 仕事の領域が広がって、ものづくりだけではなくて、京都でカフェやホテルを開くような、建築や空間をつくるような仕事も増えつつあります。京都にはいま、世界的なハイブランドのホテルがないんですね。そこで、伝統とモダンを融合した宿泊施設をプロデュースしたいと考えています。

それと、JAXA(宇宙航空研究開発機構)からの依頼で、宇宙で食べられる日本食開発のプロジェクトを、京都のベンチャー企業と進めています。保存期間の問題や、無重力のなかでもちゃんと味を再現できるかという問題もありますが、時代の必然だと思い取り組んでいます。

もう一つは、環境的な部分で、次世代の燃料として、京都の料亭などの廃天ぷら油をリサイクルの燃料として生かせないかという研究をして、ビジネスにしようとしているところです。

白石 最後に、立教大学への提言と後輩へのメッセージをお願いします。

島田 立教は、特色のある学部も含め、いろいろとユニークな取り組みをしている大学だと思います。僕はユニークという言葉がすごく好きです。これはありだ、なしだと画一的に決めつけるのではなくて、立教大学という世界観、空気感が養う広く理解しようとする心と考える力が、柔軟な感性を生む源になっていると思います。立教にはユニークさを恐れないでほしいですね。学力だけではない何かを得たのが私の立教大学の四年間でした。おかげで、社会に出ても胸を張って生きていけています。

後輩へは、キーワードとしては短いのですけれども、好奇心を持って旅に出ろ、というひと言を贈りたいです。旅というのは実際に海外旅行をしてもいいと思いますが、べつに距離にこだわらず、身近なところでも何か一歩踏み出し、知的好奇心を満たそうとする冒険者であれということですね。大学四年間で時間のあるときに積んでおけばおくほど、確実に将来への蓄積となります。

白石 マスコミを目指す学生にひと言いただけますか。

島田 私のいた出版業界はスキルがすべての世界です。小さな出版社でもいいですから、まずは得意分野の経験を重ね、特定分野のスペシャリストになるのが最短かつ最善の道だと思います。

白石 島田さんのように立教卒であるということに誇りを持って社会で活躍される卒業生がいらっしゃることは立教大学にとって心強いかぎりです。今日はどうもありがとうございました。

2007年8月22日水曜日

『中小企業”応援”新たに84人委嘱 』京都新聞 2007年08月22日

中小企業”応援”新たに84人委嘱
京滋から2人


経済産業省は二十一日、ことし一月に創設した「地域中小企業サポーター」に、演出家のテリー伊藤氏ら八十四人を新たに委嘱した。京滋関連では、東京、京都で事業展開している中小企業コンサルタント会社「クリップ」の島田昭彦社長、長浜市のガラス工芸製造販売会社「黒壁」の高橋政之社長が選ばれた。サポーターは地域で活躍する経営者や有識者らで、一月の委嘱分とあわせ計二百二十二人となった。農産品や観光など地域資源を活用し、事業展開を目指す企業を後押しする。具体的には「サポーターズサミット」や各種イベントなどに参加、成功体験やノウハウを伝授する。

都内での委嘱状交付式に出席した島田社長(四三)は「京都のよきものを全国、世界に発信する支援活動を通じ、京都に恩返ししたい」と話していた。


一月に委嘱された京滋関係者は次のみなさん。

嵯峨野観光鉄道社長 長谷川一彦(京都市)、ノムラフーズ相談役 野村善彦(同)、庵会長 アレックス・カー(同)、元美山町助役 小馬勝美(南丹市)、琵琶倉庫社長 笹原司朗(長浜市)

2007年6月30日土曜日

京都嵐山吉兆 インドの王族と食文化交流


2007年6月18日、現地時間の午後8時から、京都、嵐山吉兆、総料理長 徳岡邦夫氏が、毎日放送のプロジェクトで、インド北部の元カプルターラ藩王プリンス・テッィカ氏のデリーの邸宅に赴き、日本料理を通じて日印食文化交流を行なった。
遡ること2年前、2005年5月、プリンス・ティッカ氏は、訪日の際、日本で最もおいしい日本料理の店を探していたところ、知人から、京都嵐山吉兆を紹介され、訪問。
ティッカ氏は、総料理人、徳岡邦夫氏の作る料理に感銘を受け、「いつの日か、インドの我が邸宅で、マハラジャの友人たちに、徳岡氏の料理を振舞いたい」との希望が、今回叶ったもの。
徳岡氏も、ティッカ氏の招待を意気に感じ、若手料理人から3名を選抜、さらには、徳岡氏の長男、一喜さん(19)を含めた、海外遠征チームを編成し、現地入りした。

(左)11人の招待客を想定し、王族晩餐会用に日本から発送した食材、調味料、調理備品は、段ボール箱19個分。現地の水道事情も考慮して、料理用の水も持参。(右)当然のことながら、食材の鮮度にも気を配る。


(左)デザート用のフルーツは、現地で購入。(右)選抜された若手料理人たちが、持参した食材などにより、料理の準備を黙々と続ける。
晩餐会でサーブされたのは、8品。招待客の中で、もっとも、評判が高かったのは、伊勢えびのリゾット・吉兆風ガラムマサラ。味付けは、嵐山での調理方法を基本に、現地で調達した、カレースパイスをアレンジしながら、インド人の舌に合うように微調整した。


ゲストの前で調理をする徳岡氏


(左)歓談中のティッカ氏 (右)デザートの後に、ご挨拶。
ティッカ氏は、「私の曽祖父は、明治30年代に天皇陛下から、晩餐の招待をいただき参加しました。我々王族と、日本の皆さんとの交流はすでに四半世紀。今回は、インドの人々に、徳岡氏のクリエイティビティや、日本の料理の繊細さ、素晴らしさを味わってもらえたことに大きな意義を感じます。成長著しいインドと、日本の文化交流がもっと活発になるように頑張りたい」とコメントした。
徳岡氏も「インド人の味覚や、食べるスピードまで、総合的に考えながら調理した結果、 たくさんの満足を得られました。より多くのインドの人に日本料理を知ってもらいたい」 と語った。
なおこの模様は「真実の料理人」として、2007年7月14日(土)午後2時00分から2時54分まで、TBS系で全国放送された。

島田昭彦がインドを体感!!



ゼロの概念を生み出した国、インド。市場で働く男たちも、王族も、個々に生きる哲学を持ち、なおかつ計算と論理的思考が得意であることを今回の、訪印で実感。

ルイ・ヴィトン・ジャパンの牧里さん(写真 中央)は、今回のプロジェクトのキーパーソン。ルイ・ヴィトン・インドとの架け橋となり、クリップしてくれた。本当に感謝です。
オールドデリーの中ほどにある、庶民のチキンカレーの店。グツグツ大型の金属製の鍋で煮るのだ。今回、様々な店で、カレーを食べたが、それぞれに香辛料の配合の仕方や使い方が違っていて、実に興味深い。これもインドにハマる要因のひとつかも。



(左)ルイ・ヴィトン・インドの顧問を務める、マハラジャ・プリンス・ティッカ氏(左写真 右側)。曽祖父は、明治天皇に招かれ来日したこともあるそう。今のように、飛行機のない時代、船と車で移動し、その当時から、ルイ・ヴィトンの荷物入れを愛用していた。その縁もあって、現在は顧問として、インドマーケットのラグジュアリー層の拡大を受け、尽力する日々。(右)曽祖父の写真と当時使ったトランク



「旅は人間を成長させる」と代々教わってきたと、ティッカ氏。全く同感。様々な文化に触れることで、新たな感性が磨かれる。代々使い込まれた、ルイ・ヴィトンのトランク。MAHARAJAは藩王の意味。カプルターラ藩王と刻印されている。



インド北部のマハラジャ、元カプルターラ藩王、プリンス・テッィカ氏の宮殿。

ニューデリーとオールドデリーでは、まったく違う表情を持つ。貧困にあえぐ子供たち。まともな教育を受けてない彼らが、インドの成長とともに、教育制度が整備されたなら。全体の底上げがなされ、ますます成長は加速するだろう。

夜の晩餐を前に、インペリアルホテルのデラックススイートでランチ。北部インドを統括する面々と懇親。

写真撮影が一部の人たちのものだった頃に、すでにMAHARAJAたちは、旅をテーマにした写真集を作っていた。時空を超えて旅は続く。

インペリアルホテルのシェフたちから、スパイスの使い方についてレクチャーを受けた。徳岡氏は、夜の晩餐の料理に使うため、8種類近くのスパイスを拝借。

晩餐会のメニューと日本から持参した食材リスト



手土産として、持参した、和傘は、マハラジャの邸宅でも絶妙にマッチした。
インドの映画産業のメッカ、ボンベイ。こちらでは、ハリウッドならぬ、ボリウッドスターと呼ばれる。

(左)今秋創刊される、VOGUE INDIAの編集長とともに。(右)みんなで集合写真。

京都嵐山吉兆 総料理長 徳岡邦夫

2007年6月18日、現地時間の午後8時から、京都、嵐山吉兆、総料理長 徳岡邦夫氏が、毎日放送のプロジェクトで、インド北部の元カプルターラ藩王 プリンス・テッィカ氏のデリーの邸宅に赴き、日本料理を通じて日印食文化交流を行なった。→詳細はこちら

2007年6月13日水曜日

『新たな魅力 発見・発信したい』朝日新聞 京都版 2007年06月13日

島田 昭彦さん(43)
2007年06月13日

京都本人気に代表される昨今の「京都ブーム」。生粋の京都人は意外にその魅力に気づいていないと言われることもある。島田昭彦さん(43)もその一人だった。伝統に堅苦しさを感じ、東京、海外へ。ところが、それが京都の奥深さを知るきっかけになった。イベントをプロデュースしたりプロジェクトを立ち上げたりする会社「クリップ」で、文化や伝統を世界とつなぐ橋渡しに取り組んでいる。新たな魅力 発見・発信したい

――10代、20代は京都から飛び出したかったそうですね。
実家は代々、着物に家紋を描き込む職人。机に一日中座って作業を続ける地道な仕事です。そのうえ「一人前になるには15年かかる」。僕にはその覚悟はなく、反発もあって東京の大学に進みました。卒業後は出版業界へ。スポーツ誌「Number」では約10年間、ワールドカップからオリンピック、F1と国内外であらゆるスポーツの取材にかかわりました。

――それなのに、再び京都に目を向けたのはなぜですか。
中田英寿選手の取材でイタリアの田舎町ペルージャを訪れた時です。スタジアムで働くおばちゃんに出身を尋ねられ「京都」と言うと、「世界遺産の街だね」と即答でした。気づいてなかったけれど、京都はすごい街なんじゃないかと考え直すようになって。もう一度、足元から京都と向かい合おうと思うようになりました。

――それを形にしたのが

クリップは人と人、文化と文化をつなぐという意味です。京都は素晴らしい伝統産業の技術や文化がある。でも「お高くとまっている」と敬遠される部分もあって、もったいないなと感じていました。異業種や意外な人と文化の組み合わせで新しい側面を見せることができないか。その橋渡しをするのが僕の役目だと思いました。

――具体的にはどんなプロジェクトが進んでいますか。

最近では、京友禅のアロハシャツの企画や、イタリアの家具メーカーと京都の布団メーカーによる昼寝用マットの商品化、和傘の老舗(しにせ)と照明デザイナーの仲介などがあります。原点にあるのは「どうしたら、敷居が高いものを消費者の身近なところに引っ張りだせるか」。難しいことを砕いて伝える取材力が今、役だっていると思います。


しまだ・あきひこ 64年生まれ、立教大卒。スポーツ誌「Number」などを経て、05年にクリップ設立。ホームページ(http://www.clip-fromkyoto.com/)で活動を紹介している。